犂家のルーツ・家系図

今日は犂家の家系図を作成。

確認できるのは江戸中期頃からとか。お寺の過去帳を調査したところ、どうやらそこまでは遡れるらしい。仏壇も江戸時代中期から末期のものだとか。
結構な商家だったらしいです。船も持ってるし。元は地主なんですと。

そして、一度犂家は直系は途絶えているらしい。

明治の初め、子が無い犂家は、近隣の9歳の娘を養女に迎える。長じてその娘は、同じ村の子供の多い山本家から、養子を迎え結婚する。それが、近代犂家の中興の祖(?っていうか、一度絶えた事になるだけなんだけど)作次郎である。

そう、犂家は代々、当主は「兵左ェ門」の名を継ぐ、由緒正しき家柄なのだ!この名から、以前は庄屋だな、と古い人(年配の方)は推察で切るらしい。だから、生まれはわりといいのよ私。ちなみに師匠は代々「半兵衛」らしい。

ここで代々の当主の紹介。

初代:作次郎(旧性山本)…昭和15年頃まで存命。

二代:兵作(ヒョウサク)…この人がやり手で、近隣の村長で、後には田中角栄氏の頃の大蔵大臣・植木庚子郎氏(法務大臣も歴任)の選挙参謀だったらしい。昭和50年頃まで存命。

三代:宜(ノボル。旧性木ノ下)…シナ事変や太平洋戦争に従軍。最終階位は曹長。叩き上げの兵隊でトップまで登り詰めましたね。常に腰からどぶろくをぶら下げて歩く粋な男とか。兵作の子が一人娘だったため、養子に来た。漁師であったが、酒の飲みすぎで昭和26年頃、船の上で急性心不全。舞鶴の港に着いた頃には帰らぬ人に。享年36歳。

四代:ここが微妙。長男の俊明が家を継がず、次男の和春が家に入っている為と、三代が早く亡くなり、正式に通称を継いでいないのである。

三代亡き後、二代:兵作がその後も兵左ェ門を名乗っていた形跡がある。というのは、植木氏が祖父に送った屏風には、「人生各○○(解読不明) 康子中呂 為犂兵左ェ門君 植木書」とある為である。

しかし、犂家の持ち物である土地屋敷以外のものは(蜜柑の木やその土地)は父・俊明の所有物であることと、祖父・宜の50周忌に、私も同席したところ普段会わない古老の方々から声を揃えて「あんた兵左ェ門顔やわぁ。そっくり、瓜二つ」と声を揃えていわれたことや祖母からも何故かあんたが跡継ぎと言われたこともあり(何故か不明だあるが、保育園児の頃から蜜柑の木はお前のものだと常々言われてきた)このことから、




五代:晴家(俊明の次男坊)


と言うことで、俺の中で決定です!


というより、二代:兵作の弟・松次郎の家(分家。ここから代々当主は「兵松」を名乗る)のいえからも、「あんたしっかりしてるから」とのことで、割と認められている話である。

だからと言って、なんでもないんですが。何にも出てこないんですか。

次の機会にはもう少し、女性陣についてもふれてみたいと思います。


"犂家のルーツ・家系図" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント